こんにちは。BLANK GUESTHOUSEにてインターン中の「のり」です!
今回はBLANKより数日のお休みをいただき、カンボジアの首都・プノンペンのキリングフィールドとツールスレンに観光に行った際の感想やおススメポイント等をまとめた記事になります。
ポル・ポト政権瓦解より40年近くたった今でも、カンボジアを語る上で切り離せない「クメール・ルージュ」。
その歴史の重さに、衝撃を受けました。
ここで、ポル・ポト政権の歴史について簡単にまとめます。既に詳しい方は飛ばして先にお進みください。
ポル・ポトは、共産主義政党である「クメール・ルージュ」を党首として率い、1975年から1979年までカンボジアを独裁的に支配した政治的指導者です。
この時期はアメリカによるベトナム戦争が隣国で激化の一途をたどっていたり、共産主義の本家ともいえる毛沢東政権が中国を支配していたりと、アジア圏は激動の時代でした。
そんな中、ポル・ポトは独裁者としてカンボジア全土に恐怖政治を敷きます。政権についたわずか4年間の間に、推定150万人~200万人ものカンボジア人が、飢餓・病気・虐殺・処刑・過労等によって命を落としました。
失われた命の数だけで比べると、毛沢東の大躍進政策やヒトラーのホロコーストには及びませんが、当時のカンボジアの人口が推定800万人だったことを考慮すると、史上最大レベルの虐殺率となります。実に4人に1人のカンボジア人が死に追いやられました。
その犠牲者達の監禁、拷問の場になったのがツールスレン収容所であり、処刑場となったのがキリングフィールドです。
ポル・ポト政権について詳しく知りたい方は、是非書籍をお読みになることをお勧めします。そしてこれらの施設を訪れるご予定のある方は、あらかじめ歴史を頭に入れた上で訪問することを強くお勧めします。
プノンペンに到着し、早速向かったのは処刑場として使用されたキリングフィールド。プノンペンから郊外にトゥクトゥクで30分程走った田舎の地に、その歴史の遺産はありました。
トゥクトゥクの料金は、ホテルからキリングフィールド、そして後述するツールスレンを経てホテルまで帰るパッケージで25$でした。
外国人の入場料6$を払って、いよいよ足を踏み入れます。
キリングフィールドの入り口で、音声レコーダーを係員から受け取ることができます。このレコーダーは日本語音声にもしっかり対応しており、施設を回りながら指定されたポイントで再生することで、情報を聞きながら観光できる仕組みになっています。ちなみに後述するツールスレン収容所でもこのシステムが利用できます。
僕は施設を回るにつれて、徐々に気分が重くなってしまいました。
まず衝撃を受けたのはこの大きなヤシの木。この木は本来家畜の鶏を調理する際に、堅い葉の部分で喉を切って命を頂く用途で使用されるのですが、この施設内に限っては人間の喉を切り裂く凶器として使用されました。
更に地面を見渡すと、何やら布のようなものがあちこちに落ちています。説明を聞くと、これは40年の時を経て地上に出てきた死者の衣服の残骸だということでした。このような残骸は施設内のいたるところに転がっています。
今回は運わるく(運よく?)見ることができませんでしたが、雨期の季節には雨で地面が削られ、人骨が地表に出てくることもあるそうです。
そして次に目の前に現れたのは有名なキリングツリー。
この木の写真上部の黒ずんだ部分に、ポル・ポトの兵士が幼児の足を持ち、頭部を激しく大木に打ち付けて殺害したそうです。写真では見えづらいですが、肉眼で見ると血痕の後のようなものがうっすら見えます。
4年間の短命政権の前半のうちは、運ばれる囚人の数は1日2~30でしたが、政権終盤にはポル・ポトの無謀な政策が反感を買いはじめ、それにつれてポル・ポトの自国民を恐れる気持ちにも拍車がかかり、この処刑場に1日に運ばれる囚人の数は2~300人に膨れ上がったといわれています。
政府側はこの虐殺を隠すために、大音量で音楽を流し、近隣に暮らす住民に気づかれないよう処刑を続けました。
そして施設の中央には追悼の意を込めた建造物が凛々しくそびえたちます。ここには施設内で発見された1万個近くの頭蓋骨が丁寧かつ整然と陳列されています。中には斧やハンマーで殴り殺されたであろう、骨が激しく欠けたものも散見されました。
このように、カンボジア現政府は自国に起きた悲劇の歴史を、我々に包み隠さず、そしてできる限り発見当時に近い状況で我々に見せてくれます。
炎天下の中2時間近く歩き回って見学したにも関わらず、昼食の時間を迎えても食欲はわきませんでした。
続けて足を向けたのは、監禁と拷問に使用されたツールスレン収容所。別名S-21。
観光している際の気分の重さでいうならば、キリングフィールドをはるかに上回るものがありました。
入場料5$を支払い、例のごとく音声レコーダーと館内パンフレットを受け取ります。この施設はキリングフィールドと違い、施設の建物の内部は写真撮影が禁止されているため、建物の外観を撮った2枚と文章のみでお届けします。
B棟の外観
犠牲者を追悼する碑石
この施設は元々、地元の学生達が元気に通う高校の校舎を、政府が収容所として使用したものです。
校舎はA、B、C、D棟と入り口から近い順番に割り振られており、コの字の配置で4棟が隣接しています。
A棟には大量の囚人の中でも、最重要人物(政府関係者や、他国からのスパイの容疑がかけられた人物)が収容されました。彼らは監禁用のベッドと、供述書を書くための机が一つ並べられただけの簡素な5m平方の部屋に幽閉されます。
実際に拷問に使用されたとんかちや、使用された鋭利な刃物が無造作に部屋の中に放置されています。さらに、囚人をベッドに拘束するための手かせ足かせが未だにベッドに取り付けられたままの部屋に立ち入ることもできます。
部屋の壁には、激しい拷問のあまり息絶えてしまった囚人の死後直後の写真が張り付けられています。白黒写真で画質は荒いですが、息を詰まらせるのには十分なものがありました。
続いてB棟に向かおうとすると、木製の絞首台のようなものが目の前に現れます。これももちろん、当時拷問の一種として使用された道具です。
囚人を縄で空中に縛り上げ、気を失うと囚人をおろし、地面に置かれた他の囚人の老廃物が集められた大きなツボの中に顔面をつっこむという非道な拷問です。どんなに苦しもうと、どんなに助けを求めようと、情報を吐くまでその行為は続けられたそうです。
そしてB棟の館内には、この収容所に運び込まれた数々の囚人の顔写真がボードに掲載されていました。カメラに向ける生気を失ったカンボジア人達のたくさんの顔がそこにはありました。
政権崩壊から時を経て、新政権によってツールスレンが一般公開された後にここを訪れ、行方知らずになっていた家族の写真を探す人々が後を絶たなかったという逸話も残っています。
更に奥に進み、C棟に入ると、そこはこれまでと少し違った構造をしていました。
何が違うかというと、これまでと同じ5m平方の教室の内部に、レンガや木で仕切りが作られていて、簡易的な個室が10~15個並べられた集団監獄になっていたことです。ここには主に一般人が収監され、拷問するタイミングでその囚人を別室に移動させるという仕組みが成り立っていたようです。
ただし、一般人といっても、必ずしもポル・ポトに刃向かった人物とは限りません。
留学帰りというだけでスパイを疑われた人、英語を喋れるだけで外国かぶれしていると判断され連行された人、眼鏡をかけているだけで博識扱いされて逮捕された人….
罪なき大多数の人間を含め、計1.2~2万人がここに閉じ込められ、そのうち生存が確認された12人を除く全員が、このツールスレンを生きて出ることはなかったといいます。
そして殺害された犠牲者の中に、なんと数日前まで看守をしていた者も多く含まれています。まだ少年少女の、何色にも染まっていない子供を洗脳して看守にしたてあげ、結局この子供達も口封じのために処刑されました。
そして最後のD棟へ。
この建物には、拷問に使用された大道具や、その拷問の様子を描いたたくさんの絵が展示されていました。この絵は先程触れた12人の生還者の一人、画家のボウ・メンさんの作品です。その拷問の仕方は劣悪非道で、見るに堪えないものもありました。その一部をご紹介します。苦手な方は飛ばして先にお進みください。
特に目を引いたのは人2人がすっぽりおさまるほどの大きな水槽。これを水で満杯に浸し、囚人を水槽内の足かせにはめて固定し、地獄の水攻めを延々と続けたと音声ナレーターは語りました。
他にも様々な拷問方法を描いた絵が壁に貼られていました。
うつ伏せの囚人の背中を皮膚が破れるまで鞭で打ち続け、その傷口に食塩水をぬりたくったり、
看守が求めるレベルの自供がとれるまで、両手両足の指を一本ずつ切断していったり、
胸元にメスを入れて、その傷穴に野生のムカデを潜り込ませて苦しめたり……
想像を絶するものがあり、この日最大の吐き気が僕を襲いました。
以上がキリングフィールドとツールスレンの概要説明となります。ここまで、目にしたものや学んだ情報ばかりを綴り、僕の感想には触れてきませんでしたが、ここでこの日を通して僕が個人的に感じた感想を書きたいと思います。
僕が一番強く感じたのは、歴史の重さや犠牲者への追悼の気持ちではなく(もちろんその気持ちはしっかりあります)、歴史を学ぶ大切さです。
この観光を行ってから数日後にこの記事を執筆している訳ですが、観光をする前とした後で見える世界が変わりました。それまでは隣国のタイやベトナムがあれほど高度な発展を遂げている中、カンボジアがまだまだ遅れを取っている原因は、単に国力不足だと勝手に決め込んでいましたが、今回歴史を勉強してもう一度見渡してみると、「よくここまで立ち直ったものだ」と180度逆の考えが出てきました。
他にも、人口ピラミッドの形にも納得がつきました。平均年齢が20歳前半のこの国は、街を出歩いていて老人とすれ違うことは中々ありません。日本と真逆です。その理由について、ポル・ポトの虐殺のせいだとなんとなく理解していたつもりでしたが、今回しっかりと理解することができました。
このように歴史を学ぶと、特にその国の過去数百年の中でターニングポイントとなった出来事を詳しく学ぶと、見えるものが変わってくるのではないかと思います。僕はこの国について理解できる範囲が広がりましたし、よりその国やその国民性を注視することができるようになったと感じます。
そしてこれはカンボジアに限った話ではなく、日本を含めた世界中全ての国に当てはまるはずです。
したがって、カンボジアはもちろんのこと、それ以外の国に旅行・滞在の予定のある方も、その国の歴史を学んだ上で飛行機に乗るのも一つの旅行の楽しみ方としてありなのではないでしょうか。ネットの発達した時代なので、少し探せば旅行人気のそれほどない国でも簡単に記事や書籍が見つかるはずです。
今回の観光の中で、この発見をできたことが個人的には最大の収穫でした。
以上、キリングフィールドとツールスレン観光についての紹介記事でした。
最後までお読みいただきありがとうございました。